昭和46年01月27日 朝の御理解
御理解 第88節
「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
親が、娘が嫁入りをする時に、いろいろな道具を持たしてやります。中にも、鏡は、何はなくても鏡だけはと言うて、必ず鏡は持たせます。それは女の魂だという訳ですね。いつも顔を綺麗にするばかりではないと言われるのですから、もちろん顔を見る形、やはり顔を綺麗にする。お化粧をする時には、やはり鏡を立てなければ分かりません。ただ、いきなりに顔を出してお化粧しただけでは汚れておるかも分からんし、お化粧の具合も分からん。やはり鏡を立てなければ。
だから、顔を綺麗にするばかりではないとこう仰る。それだけではないけれども、やはり顔を綺麗にするために、有るのだということになります。お化粧をする事のために鏡というのはある。けれどもそれだけではない。自分の、やはり、顔じゃなくてね、腹が立ってきた時には、何とはなしにやはり気分が悪い。悲しい思いをする時には、何とはなしに寂しい顔をしておる。いかにも、剣のある顔やら寂しい顔やらが、人に接した場合、良かろうはずがない。
これではむしろ家を治めよと仰る、家を治まるどころか、かえって家の中が暗くなったり、もう家に居ることが嫌になったりするでしょうね。嫁後の顔見よると家に居ろうごつなかごつなったりする訳ですよ。けれどもそのまあ、世の習いにはいつも、こざっぱりと綺麗な薄化粧のひとつもして、いつもにこやかでおるという事になれば、家の中はいよいよ春のような楽しい、いわば雰囲気が家の中一杯にみなぎる。そこん所を願いとして、親は子供に鏡は持たせるのだという訳なんです。
ですからここん所は決してだから、娘とか嫁とかというだけのことではない。これはもう私共の一人一人がです。例えば親が鏡を持たすと言う。神様が私共にこの教えをして下さると。いうなら教祖様が天地の親神様からお受けになられたおかげを話にして残しておくと仰るように、その話である所謂教えである。その教えを私共にいつも心に掛けておれよと言うて下さるのは、いつもその教えというものが、私共の鏡にならなければならないという事が言えるのです。いつも教えを鏡にしてと言う事である。
果して私共は教えを鏡にして、限りなく本気で美しゅうなるぞと言う様な、矢張り決心が要りますね。教えていくというのはね、もうこれはもう絶対それこそ利口者になると言う事でもなからなければ、偉くなると言う事ではない。もういうなら限りなく美くしゅうならせて頂く事なんですけども。その結論はどう言う事になるかというとね、もう限りなく有り難うならして頂くと言う事なんです。
ほんならほんとに限りなく有り難うなりたい、有り難うなりたいと言うても、有り難うならして頂く道というのは、限りなく私が美しゅうなるということ以外にないです。信心は、それを目指さなかったら、信心の値打ちは、他所の信心は知らんけれども、金光様の信心にはないと思う。これで良いということはありません。もう限りなく美しゅうならせて頂くという。その為にはいつも自分自身が分からなければいけない。
どこが曲がっておる、どこが汚れておると、教えを頂けば頂く程、これは自分自身の心の中に。これは二十年前ですかね所謂。手控えに控えてありましたのを、昨日たまたまこれのある事を思い出してから、昨日ぐらいから探させて頂こうと思うて探しましてから、引き出しましたら、もう昔頂いたみ教えを、皆さんに記憶があるかどうか知りません。「信心の道求むれば尋ぬれば己が心に帰していくなり。」と、
だからおかげの道を求むればは、そのこれが何かというと信心の道を求むれば、尋ぬればもう自分の心に、帰していくんだと。それが信心なんだ。だからおかげの道じゃない。信心の道。「信心の道 求むれば 尋ねれば 己が心に 帰していくなり」。もう様々なチャンスを掴まえ、それが全て自分を愈々、限りなく美しゅうならせて頂くことの為の材料にする修行にしていく。
ここんところを、もう続きである所を読んでみますね。「春風を以って人に接し、秋霜を以って自らを慎む」という意味のことなんですね。人に接する時には、それこそ暖かい春の風のようであれという訳です。自分に対してだけは、秋霜とは秋の霜と書いてあるね。秋霜を以って自らを慎む。もう信心を愈々求むれば尋ぬれば、そう言う事になる。ところがどうでしょうか。人を見る場合に秋霜を以って見る。
人は厳しく人を厳しく見る、親がつまらんからとか、家内がつまらんからとか、店員がつまらんからとかという主人、そういう妻であり家内であり子であったんでは、だから家は治められていませんね。自分の心が第一治まってない。人をそれこそ秋霜を以って、秋霜を以って見るのは、自分自身の心の中。だから人を責める様な心やら、人に不平不足を感じる時には、もうすでに信心ではないという事になる。
現に親子が親足らずとも、子は子足れと言うておられます。みな親は親がたなかっても、子供は子供の道をちゃんと尽くしていけと、こう言うのである。親は親がたなかけれども、と言った様な見方せんなと言うのですね。私は今日この八十八節を頂かして貰うて、八十八節という事は八十八と。私はこの御理解を頂く時いつもそれを思うんです。ここんところの御理解を、私どもがよう分からして頂いたら、もうそれこそ、おかげにおかげの花が咲いていくようなおかげになるなと言う事なんです。
八十八というのは、もう広がりに広がるという意味でしょうか。八というのは末広と言います。それもプラスの八です。八十八とはそう書いてある。八十八節というここんところ、この御理解をほんとに自分の物にさせて頂いたら、もうおかげはね、嫌と言うても、おかげにおかげの花が咲くのです。ですからそれを八十八節からまた、教祖様の言葉を借りるとすると、此方の道は喜びで開けた道だから喜びでは苦労はさせん。
喜びに喜ぶ、喜びに喜んで開けた道じゃからというのです、教祖様は。喜びに喜ぶ。末広、広がりに広がっていくというおかげの頂けれる、このみ教えなんです。決してこれは若い娘さんが嫁後に行く時の為だけの御理解じゃない。これも信心さして頂く者の心得としてです、ここんところは大事なんです。教えという鏡を頂いて、いつも教えを、前に立てては、自分自身が限りなく美しゅうならせて頂く事に精進する。
限りなく美しゅうならせて頂く事に精進するから、限りない喜びが、ここに伴うてくる。それこそ自分の顔を鏡に映して、自分ながら惚れ惚れとするごと。自分で自分の心を見せて頂く時に、まぁようも変わりも変わり果てたもんだなぁ、この様な有り難い自分になっていくという事が、もう楽しゅうて楽しゅうてたまらん。ですから、どうしても喜びに喜べれる為に、私どもは本気でまず顔を美しゅうする事に
。心に辛い悲しい思いを思う時にです。
いうならば人を秋霜で見自分を春風、自分が可愛いと思う自分だけを愛する心。本当に私のごたる不幸せな者はおらん。もう私のような不幸な者はおらん。もう私が一番貧乏くじ引いとる。そういう思い方なんですよ。自分を春風で春風のように、自分を甘やかしちゃならん。自分はどこまでも秋霜の厳しさをもって自分自身を見ていく。信心の道を求むれば尋ぬれば、己が心に帰していくというのですから。
おかげを求めるならいざ知らず、信心を求めるならもう自分自身の心を、見極めていく以外にはない。昨日裏に下がっていましたら、私に会いたいという親子の人がお参りしておりました。私はまたここへ出て来て奉仕さして頂いた。それであちらでお茶を一服頂いておりましたから、そのいうならまあちょうどテープを頂いとりなさると言うから、お茶一服頂いてから行こうち言うて、お茶一服頂かせて貰いよったら、私を待っておるという、その事をお茶を頂きながら頂くんですよね。
ははぁ今日私がお取次ぎをさせて頂かなきゃならんのは、この事を教えてあげなければいけんのだなぁ、お取次ぎさせて貰わにゃいけんのだなぁと思うた。というのはねこの土台の「台」という字。いうなら今日の御理解で言うならば、家を治めるという、その治める土台という。私は立派にやっていきよるけども、もう家の中が乱れておるというのは、土台が悪いから。それでその土台は誰かというと、土台はねやはり信心のある者が、その土台にならなければならない。
信心させて頂く者が、全てのおかげの土台になるのです。その台という字を頂くんですね。台という字を皆さんちょっと書いてみてごらんなさい。カタカナの「ム」と書いてあろうが。下はこの「口」という字が書いてあるね。ム、で口と書いて「台」という。ははぁ今日私を尋ねに来ておる人は、何かを言いたいのだ。けれども言いたかろばってん、言うちゃならんぞ。無口になれよと神様は教えて下さったんだと思うたから、私はその事をここで伝えさして頂いた。
お嫁に行っておる娘と、お母さんと二人でお参りしてました。親子で、家ん中が乱れに乱れておる。私ども兄弟がもう兄弟全部集まって、乱れておるその元がここにあるという事が分かるから、それをね、随分と言うて聞かせたり、頼むようにして言うけれどもね、ひとつも言う事を聞かん。どういうふうにしたら良かろうかと。で私が申しました。もう長い間それこそ兄弟達が様々な、あげんしたら良かろうかこげんしたなら良かろうかと言うて、もうあらゆる手を取らして頂いた。
いうならば言うて聞かせる事だけ、随分言うて聞かせた。昨日来とったのはその本人の妹になるという。ですからねとにかく「兄さん妹の私がこげん言うて頼みよるとじゃから」と、こう言う。そしたら本人が涙をポロポロ流して聞くち言う聞く時だけ。けれどもあくる日になったら、コロッと変わっとる。ほんとに妹からこんな注意をされ、やっぱ情けないと思うのでしょう。
けれどもあくる日は、また元の木阿弥になっとる。だからあらゆる手、あらゆる事を言うて聞かせたり、こうと頼むように言うても、それを聞かんところを見ると、もうあんた達はね、もう手は無いのじゃないか。いうなら神様にお縋がりする他にないじゃないか。「そんならね、神様にお縋がりするより他に手はないのだから、決してもう言いなさんな」て私が言うた。いわゆる無口になれと。
だから無口になるということは、もう黙ってしもうてから構わんぞというのではなくて、無口になれということは、自分自身が、改まって願えという事。これはもうどんなに考えても不思議で不思議でたまらん。それが馬鹿でもなからなけばね、ちょいでもない。それを、これだけ兄弟が集まって言うて聞かせるのにです。また同じ事を繰り返しておるということはです、これは何か不思議で、ここに不思議な事だと思うたら、その不思議なところを分かれ。
そして分かって分からして頂きよったら、なるほど、信心を求むれば、やはり自分の心に帰していく。これなら兄ちゃんばっかり責めるだんのこっちゃない。私どん自身が改まって、神様に願うていかなきゃいかん、もう兄ちゃんに言うたっちゃ同じ事。それがおかげの土台にならなければならないと、あんたどんが分からなきゃいけんという事です。兄弟を悪う言うばっかりもう。
なるほどこれも信心を抜きにしてみたら、その人が一番悪い事になるかもしれませんけれども、信心の道を尋ぬれば、そういう事ではない。自分自身を秋霜を以って見るという。今日、御神前に出らせて頂いたら、こんな事。ここの設計図…(途中録音不良)…石の庭が、ここんところへ全然、あの中に砂利が入ってます。砂が。その砂が全然入ってないところがある。
いわゆる大きな石だけがあるだけで、下に砂がないところを頂いた御心眼に。どういう事だろうかとこう。ははぁこれは石は有れども、小石がないという事だと私は思うた。まあ石というのは心。意思が強いとか弱いとか。石とは心のこと。小石とはやっぱ下に、砂のまあ事。思うちゃおるけれども、いうならば憧念心がない。例えてこうやって、寒修行が始まっておる。
もう寒修行が始まりよるけん、せめて一日なっとんお参りしゅうち思いよる方が、あるかもしれません。いや今度の寒修行はどうでんこうでんいっちょ、もうお参りし続けようと、思うておる人があるかも知れません。意思はある心はある。心はあるけれども、体の方がいうことを聞かん。と言った様な事だとこう思う。だから私はその石は有れども小石はないというその小石ということがです。
いうならば憧念心とでも申しましょうか、神様に対するところの憧念心。ただおかげを頂かなならんから、一生懸命寒修行でん参って来ると言う様ではね、おかげを頂いたら、必ず信心が薄うなる。信心が分からして頂く、信心が分からして頂く喜びがね、お参りという事になる。神様に対するところの憧念心。憧れの念。お参りせなと思うとりますけれども、お参りが出来んというのは、いわば憧念心がないから。
だからその憧念心ということは、どういうことかと言うと、私は思うのですけどもね、御礼心だと思うですね。御願いに参るということではなくてね、御礼参りをするという事。御礼のしるしにという事。これ程しのおかげを頂いて、せめて年に一月ある寒修行だけ位なことは、一つおかげ頂かにゃ。御礼のしるしにという、その御礼の心がないから、私はお参りが出来んのだとこう思う。
一番私は素晴らしい信心は、御礼の信心だと思う。ほんとにおかげをおかげと感じらせて頂いたら、御礼参りさせてもらわなきゃおられん。家にじっとしてはおられん。ぬくぬくと眠むっちゃおられない。そういうものに高められてくるのだと思う。いわゆる、おかげの自覚というものがないのだ。 石はあれども、小石はない。思うてはおれども、体の方が言うことを聞かん。それはどういう事かと言うと。
信心を求むればまたは尋ぬれば、己が心に帰していくと言う所に信心の焦点が合わせてないから。信心ちゃおかげを頂くもんだというような頂き方しかしてないから。だからおかげを頂いたら、もうやれやれになってしまう。しかもそのおかげも、ほんとのおかげの実感というものがない。だからもうさあ寒修行が始まったからと言うて、その、御礼参りも出来ないことになってくる。
おかげ頂きまして有り難うございますとは、そら白ごつ、ほんとに思うとらん。ほんとに思うたら、お参りせにゃおられん。かち言うて、ほんなら、お参りしよるもんが皆そんなに有り難い勿体無いで参って来よるかというと、そうじゃあない。尻に火が点いたようにして参って来る。だぁれん、ここん寒修行だけは、もうひとつお参り一緒に行ってから、、こげなおかげば頂かにゃんと思うてる。
だから、おかげを頂いた者ほど、お参りが出来ん。やれやれが出てくる。そこで、お互いがですね、信心の、いわゆる道を求める心というものが、ひとつ強うならなきゃならん。辛い悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を、人に見せぬようにして家を治めよということである。お互いが、やはり苦しい思いをしたり、辛い思いをしたりする。そういう時に、教えの鏡を立てさせて頂くとです。
結局こういう苦しい思い、こういうふうになってきたのも、私のせいだという事に帰していく者でなからにゃならん。そこにはだからなるほどニコニコは出来んかもしれん。けれどもね、相済まんという事にはなってくる。私のためにこの様な難儀が、と言う事になってくる。先日私はあるお書物を読ませて、お道の本を読ませてもらいよりましたら、ある大きな教会のもう大変な大きな教会の先生のお話が出ておった。
その先生は去年広島のその、原爆が慰霊祭がありましたね。そん時に講師としてそこに行っておられます。そしてその先生が言っておられるのを聞いて私は実に驚いた。というのはね、開口一番一番初めにね、広島の沢山の市民が集まっておるその中でね、開口一番、どう言うておられるかというとね、広島に原爆が落ちたのはね、私の祈りが足りなかったからだって、広島市民にお詫びをしたち言うておられます。
素晴らしいでしょう。まあ皆さん、素晴らしいのが分からんかもしれんね。広島に原爆が落ちたのは私のせいだち。ほんなら、その先生が、広島に原爆を落してしてくれち言いなさった訳でもなんでも無いでしょうけれどね。はぁ、この先生が、こういうような気持ちでおられるから、ご自分の教会ではあのような御比礼を頂かれるのだなあと、私は思うた。世界の難儀というものがです。
自分の祈りが足りないから、自分の信心が足りないから、世の中にこのような悪があったり、難儀があるのだというふうに頂いておられる訳です。信心ちゃそういう大変なことにまでなってくる。ですからまして自分一家の事。まして自分一家の事。ましてこの教会長である私が、ここの教会だけの事、教会の信者の中に難儀な氏子があったら、私の信心が足りんからと、お詫びをする先生でなからなきゃならんと私は思う。
家の中でもそうです。信心する者が土台にならにゃならん。台にならにゃならん。それになんぞや、家の中に、このような難儀が起こってくるということは、私の信心が足りなかったからと、詫びて詫びて詫びぬかして頂く心なんだ。信心とは、それが段々段々大きくなってくる。広島に原爆が落ちたのは、私が悪かったんだ。私の祈りが足りなかったんだと、広島市民にお詫びをしたと。まあ私どもでは想像もつかない程しのことでございますけれども。それが信心なんだ。
だから、せめてお互いがね、自分一家のことがたぐらいはです。ほんとに私の信心が至らぬから、信心の土台がほんとにでけてないから、こういう結果になるんだと。例えば、それが主人であるならば、家内を責めたり、子供を責めたり、または、自分ところの使用人の働きが悪いようなふうに思うたりする事が、いかに間違いであるかということを分かるんだ。そこに教えの鏡を立てさせて頂くと、そういうふうに写るのだ。人じゃない自分だということ。
そこに相済まんという心、または有り難いと御礼を申し上げる心。そういう心の状態の時こそが、心が治まっておる時なんだ。心が治まる。そこから家が治まってくるというおかげを頂かなきゃならん。家内が、ちっと変わってくれるといいけれども、娘がいっちょ改まってくれるといいけれどもと、そういうことでも願いよる時代はほんなもんじゃなかということです。
身に余る様な、そういう様子が見えれば見える程、ここでいうならばです、子供の事子供達が不信心で困ると言う前に、自分自身が不信心であることを悟らして頂いて、神様の前に平身低頭。これほどしのおかげを頂いておるのに、こういうお粗末ご無礼なことがあって相済みませんと言うて、私が詫びるより他にないのだと。それが、私は信心させて頂く者の姿勢であり、姿でなからなければならん。
そこにはね、自分自身の心、人にもっていくのじゃないから、自分の心で治まっておる。その自分の心の治まりが家の治まりになってくる。だけになるのではないでしょうかね。八十八節は私はいつも、先ほどから申しますように、もうおかげにおかげの花が咲く程しのおかげの頂けれるみ教えだということ。それは、ここんところの成り行きを、私が申しましたようなところの内容としてです。
自分自身の心に帰していくのだと、全てが。というような生き方をもって、自分の心を治めていくならばです。そこから喜びは限りなく頂けれるだろう。喜びに喜んでいけれる道が、そこにはっきりしていくだろう。そこにはね、頂いた水もまた頂けれる。いわゆるおかげにおかげの花が咲くようなおかげが頂けれる。こういうあり方にならせて頂く時にです。家の中は円満になるだろう。
世の中はまた、平和になっていくことであろう、こういう心掛けの人が多くなれば。せめて、だから広島で講演をなさったという先生のお話じゃないですけれども。せめて自分一家のことだけぐらいは、一切の例えば難儀の元が自分の不信心にあるのというぐらいなことが分からして頂く信心にならせて頂いたら、必ず家は治まって行く思うですね。
どうぞ。